映画Theory of Everything

梅の蕾み
梅の蕾み

映画Theory of Everythingの博士論文審査のシーンに思うこと

映画の邦題にはいつも考えさせられる。Theory of Everythingが、「博士と彼女のセオリー」になるのは、内容に即しているとも言えるし、一方ではもったいない。「万物の理論」が持つ思想的なインパクトを、日本のポピュラーカルチャーに根付かせる機会が失われたとも言える。

そのTheory of Everythingの中で、印象的なのが、ホーキング氏が博士論文の最終審査に呼ばれて、ロジャー・ペンローズ氏を主査とする審査員たちに酷評されるシーンである。「第一章は穴だらけ、第二章は裏付けがない憶測、第三章は・・・」みたいに進んで行き、あちゃーとなる。

ところが、ペンローズ氏「第4章は、時空の特異点を扱っかっていて、掛け値なしに素晴らしい。独創的で、深遠だ」と続ける。「それで、審査員全員の総意として、ホーキング君、いや、ホーキング博士、君の博士論文を合格とする!」と告げる。映画を飛行機の中で見ていた私は、「ここだな!」と思った。

Theory of Everythingは、ホーキング博士の妻の手記に基いているようだが、この博士論文審査のシーンが、どれくらい事実なのかは知らない。ただ、映画製作者と、彼らが普段暮らしている国(つまりは英国)の一種の「コモン・センス」がそこに表れていることは明らかだろう。

博士を授与するに値するかどうかは、学識ある者(この場合は、ペンローズ。確かThorne氏もいるという設定じゃなかったか)が判断するものであって、何らかの外形的基準や、点数で決まるものではない。ホーキング氏の博士論文のように穴だらけでも、煌めく独創がそこにあれば、それでいい。

論文がいくつ通っているとか、ちゃんと引用論文が揃っているとか、そういうことで博士が与えられるのではない。これは、ぼくにとっては全くそのとおりという常識だと思えるけど、Theory of Everythingのシーンでそれが描かれていたことに、ある種のうれしさを
感じた。

自分で判断する自信がない人達がつくる社会、他人が自分の責任で判断することを許容しない社会では、次々と外形的基準がつくられ、品質保証がなされているかのような欺瞞がまかり通る。しかし、それは学問の本質には無関係だし、一つの堕落である。特定の国を想定して書いているわけでは決してないが。

アメブロのサイドバーにバナー(画像リンク)を設置するには|やさしいアメブロカスタマイズ!と女性タレント画像

アメブロのサイドバーにバナー(画像リンク)を設置するには|やさしいアメブロカスタマイズ!と女性タレント画像.