スッタニパータ

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釈迦は説いた原始仏教「スッタニパータ」に犀の角の章があります。みんなの好む「一匹狼」とは、たぶんこの意味なのだと思います。いくつか紹介します。
 
●この世の あらゆる生き物に対して暴力を加えず、悩まさず、さらには子(異性・家族)を欲してはいけない。朋友などは なおさらである。犀の角のようにただひとり歩みなさい。
 
●交わりをすれば”愛情”が生じる。“愛情” によって”苦しみ”が生じる。”愛情” からは “禍” が生じることを観察して犀の角のようにただひとり歩みなさい。
 
●“朋友・親友”に憐をかけて心がほだされると自分の”目的”を見失う。”親しみ” には、そんな”恐れ”が生じてくるのを観察して犀の角のようにただひとり歩みなさい。
 
●山林で何にも縛られていないシカが食物を求めて”自由に” 歩き回れるように”聡明な人間” は“独立・自由な状態”を目指すのです。犀の角のようにただひとり歩みなさい。


吉木りさ
吉木りさ
指原莉乃
指原莉乃
吉木りさ
吉木りさ
篠崎あい
篠崎あい
島崎遥香
島崎遥香

偽善と善と

「情けは人のためならず」の慣用句を引くまでもなく、世の中の善行は、大半が偽善に満ちている。
 
何か施すことは巡りめぐって自分に帰るなんて、打算の極み。でも、昔の人は、それでいいから善行をしろ、と教えたわけで。
 
子供を褒めて育てるのも、実は偽善的精神の育成に貢献する。いいことをすれば褒めてもらえる、というのが無意識に刷り込まれ、善行の習慣がつくだけだ。
 
思うにすべての善は偽善であって、善と偽善のちがいは、その行為の主体者が行為の裏側に打算や承認欲求を自覚しているかどうかだと思う。
 
自覚している人は、自分の善が偽善だと知っているのでどこか謙虚になろう。無意識の人は、自分の善行が偽善的な性質をはらむことに気づかないので、第三者から「偽善だ」と指摘を受けることもあろう。
 
つまりあらゆる善行は偽善であり、それを自覚して自責するか、あるいは他人からときに批判されるか、程度のちがいしかない。
 
偽善でないものは善ではない、ともいえる。まったくの偽善でない行為をあげてみよ。それは多くの場合、視野の狭い乱暴な思い込みがみせる善の幻影である。効果としてはもっとも悪に近い。なーんてね(*´ω`*)


足立梨花
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広瀬すず
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白石美帆
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稲森美優
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池田エライザ
池田エライザ
小嶋陽菜
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BMW
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新川優愛
新川優愛
菜々緒、本田翼
菜々緒、本田翼

レッテルと人と

人間はレッテル張りをするがこれは名詞を理解できるから。動物は名詞を理解できない。動詞の命令形として情報を処理する。
 
たとえば犬の「タロー」はタローと呼ばれることで主人(声の主)に近づき愛想を振りまく動詞、命令として情報を処理する。自分がタローとは理解していないのだ。
 
人は、名詞、つまり名前(ブランドやレッテル)のために生きている稀な生き物。それは苦しみでもあり生き甲斐にもなっている。